preparedness "覚悟"

2008年1月4日
正月一人旅の二日目

【19:00 東京行き】

二日目に感じた事の前に初日の続きを振り返ろう。

昨晩、広島に17時前に到着するも、八昌というお好み焼き屋さんに
辿り着けたのは18時すぎだった。

このお店の鉄板式のカウンターはまさしくLの字になっており、
長い方の一辺に複数のグループ客が綺麗に肩を並べて食べていた。
その様子を見てみろいうと店員さんの無言のメッセージなのか、
誰もいないもう一辺の隅に通される。
食べていたお客さんの全員と目が合ってしまうも、そんなの関係ねぇ。
彷徨い疲れと、朝の出発前に実家で朝食をとって以来の食事に
期待せずにいられず、がっついた。

生ビール
とんぺい焼き
お好み焼きスペシャル(肉増し、うどん玉のせ)


お好み焼きが好きでなかった子供の頃には考えられなかった光景だろう。
身勝手なもので、味云々の前に、何よりも存在自体が許せなかった。
大阪京都と母親の料理で青春時代を過ごした子供の頃の食卓には、
大好きなたこ焼きよりも大阪ならではのお好み焼きがよく登場したから。
たこ焼きを月1,2回程度に追いやるお好み焼きには好感が持てず、
あまり好きにはなれなかったのが一番大きい。

お好み焼きに目覚めたのは高校3年生になって受験勉強の合い間に
美味しいお好み焼きを食べる機会があったお陰になる。
もし、毎日通っていた予備校の前に鶴橋風月がなければ、未だに
お好み焼きに目覚めることが出来ていなかったかもしれない。

そのお好み焼きのお陰か、志望していた大学に合格し、東京に行く
事になった。しかし、大阪から離れるわけだから、お好み焼きとの
関係は最悪の流れとなる。
実際、実家の頃は最低でも月1回には食卓に並べられていたが、
上京してから2年以上の間、口にする事はなかった。

しかし、風月とはどうやら運命の巡り合わせがあるらしい。
そして、大学2年の時にお台場で偶然に風月を見つけてしまった。
それからは、お台場に行くと必ず風月に寄ってしまう習慣ができた。

それくらい、大阪風お好み焼きとは離れられない関係にいながら、
本場の広島風お好み焼きはどうだろと気になっていた。

正直、大満足には違いなかった。
期待していた食感とは違ったものの、味には大きな満足を得られたから。

食べるまでは、キャベツを生地に混ぜない事から食感はサクサク感が強く、
味は全てがソースに負けてしまっている状態を勝手に想像していた。
しかし、実際に食べて見ると、炒まったキャベツの千切に近かった。
つまりは、キャベツの千切りのサクサク感をしっとり感に変えて、
温められた事による甘みと、若干の焦げが作る苦味があいのりした状態。
このキャベツの味の背中を押しつつ、合せられた食材も存在感を見せる。

 「そらそうや、混ぜずに乗っけてるだけやもんな。なるほど。」

鉄板のカウンターテーブルの片隅で思わずつぶやいた。
他のお客さんとまた目が合うのが怖くて顔を上げることができなかったが、
恐らくは聞こえてしまっていただろう。。

しかし、いくら昼食がなかったとはいえ、欲張り過ぎた。
キャベツの上に卵の生地と豚肉を乗せた広島風(?)とんぺいは余計だった。
かといって残すわけにはいかないとビールと一緒に胃袋に押さえ込んだ。

その格闘中に、L字のもう一辺のコーナーサイドの大半の客が入れ替わった。
すると30〜40代くらいの白人男性2人組みが会話が聞こえる近さに座った。

個人的にDSでえいご漬けをやり始めてから約3ヶ月の成果を試したい。
でも話かける勇気などあるはずがない。。。
なので、会話を盗み聞きする事にした。

 「生ヲ2ツ、肉玉ヲ2ツ。オ願イネ。」

めっちゃ日本語やんけ!今度のツッコミは心の中だけにしておいた。
その後も流暢な日本語で隣に座る日本人女性2人組に話かけ始めたこの2人は
どうやらこの辺りで仕事をして住んでいるようだった。
そういえば、先日退社された英語堪能の元上司が言っていた事を思い出した。
「広島は外国人観光客が多く、その人達を相手に英語を練習していたよ。」
確かに本当に外国人が多そうだと確信できたのをお土産に、お店を後にした。

時は19時過ぎ、瀬戸内海に面するこの都会でも夜の姿が始まろうとしていた。
もうホテルに戻って休むには勿体ないと平和記念公園あたりを散策する事にした。
平和記念公園へと続く大通りには何千何万個のLEDを使用したイルミネーションの
オブジェが軒を連ねていた。おもわぬスケールに喜び、デジカメで撮りまくった。
ちょうど、東京でも日比谷公園で大きなイルミネーションイベントが開催されて
いたはず。それを見たわけではないが、それに匹敵する規模なのかもしれない。
イルミネーション群を抜ける頃には、実家から持ってきた低性能のデジカメでは
鮮明に記録できないことの悔しさが心の中で勢力を増していた。
そん中で辿り着いた平和記念公園は俺の心に静かに喝を入れるように待っていた。

注目を集めるべく照らし出された慰安碑
その先で命の尊ささを訴えているのであろう灯火
そして、薄暗い闇の中で小さな光を帯びながら佇む原爆ドーム

この広場の空気は止まっていた。
というより、流れてはいけないのかもしれない。
しかし、後ろ向きなものは感じさせず、前向きに平和を強く訴えていた。

夜にも関わらず、観光客が訪れては、次々と次の場所へと立ち去っていく。
ご年配の方に連れられて慰安碑の前で静かに30秒間手を合わせる子供達、
デジカメを片手にフラッシュ撮影を繰り返す家族連れ、外国人のカップル、
そして、おれのようなおひとり様。
数分の間で現れた7,8組の人々の胸に刻まれたものは、それぞれ違うのだろう。
原爆が落とされた場所にあるものなので、原爆の破壊力を証明しているもの
という解釈だけはして欲しくないと願ってしまった。

ちなみに、なぜ原爆ドームの一部は倒壊せずに残ったのかを初めて知った。
正確には、小学生の時に習ったはずだが、その習った事も覚えてないのだろう。
何故残ったかというと、爆心地に近いからだそうだ。
確か説明には、原爆ドームの南東160M先の上空600Mで爆発と書いてあったと思う。
2kmを豹変させたその爆風は、ほぼ垂直に原爆ドームへと襲い掛かったそうだ。
勝手な想像であるが、完全な真上でも押しつぶされていたのかもしれない。
建物の中構造と、風圧の関係少しでも違えば、また違った結果だったのだろう。
そして、戦後に悲痛的な見方と倒壊の恐れから取り壊す流れだったものを
周囲からの存続の希望の強まりから、広島市議会で残す事が決まったそうだ。
その後、寄付などでの修復工事などもあって、今も世界へ訴えて続けている。

 「ねぇ、お母さん。修復工事したら意味ないじゃん。」

説明用の掲示板を見て、家族連れの中の女の子がこんな発言をした。
素直な意見だ。おれも子供の頃は恐らくそう思っていただろう。
「崩れちゃうからよ」と教えていたこの子供のご両親へお願いしたい。
せっかくなのだから、その純粋な心を綺麗な色で塗ってあげて欲しい。
ガンジーに育ててほしいとまでは言わないから。

その後も市街地観光にほっつき歩いて夜10時も過ぎてしまったにも関わらず、
ホテルで缶ビールやインターネットでなかなか寝なかったせいもあって、
今日の朝に起きたのはチェックアウト時間である10時ちょうどだった。
当初の予定では、この時間には宮島に到着しているつもりだった。

チェックアウトできたのは10時半だったが、ホテルから超過時間分の請求も
なかった為、ホテルの印象としては最終的には良い方となった。
ちなみに、ホテルJALシティに宿泊したのだが、それまでの印象は悪かった。
駅から想定より遠い、館内に飲み物の自販機なし、冷蔵庫の使用伝票なし、
そして、使わないが、1Fのレストランが予約のみであまり機能していない。
そもそも金に拘らず、サービスを気にしていたつもりなのだが、
やはり最後には金で印象を変えてしまうようだ。。

結局、宮島に着いたのは、11時半頃になってしまっていただろう。
フェリーで宮島桟橋に降り立つと、馴染みのある動物の大群が向かえくれた。

 deer(鹿)

青春時代に奈良公園で慣れした親しんでいたはずのこの動物
それでもこの予想外の遭遇には初めて見た小学生の頃のように胸が踊った。
宮島の象徴である海上の大鳥居をバックに鹿を中心にシャッターを切ったほど。
この海上に浮かぶ大鳥居を含めて朱色に統一された建造物が厳島神社だった。
初詣の参拝客で溢れあうこの世界文化遺産は干潮の海で観光する事になった。
本来は満潮で神殿の手前まで押し寄せる潮の上で自然の凄さを時間したかった。
逆に干潮のお陰で海岸の下まで歩いて大鳥居のすぐ近くまで寄る事ができた。
長い回廊が張り巡らされたこの世界文化遺産には疑問に感じる事もあった。
日本昔ばなしに出てきそうなまさしく半円の形をした橋は上れたもんじゃない。
その実用性の疑わしさに日本の古風の美を感じるべきなのだろうか。
個人的には魅せる感の強い色彩や建造物には心が動くほどのものではなかった。
しかし、なぜだかわからないが、唯一こげ茶色をした能舞台専用の建物には
歴史の古さを感じるものがあり、じっくりと鑑賞を楽しんだ。
厳島神社を抜けるとその先に清盛神社と呼ばれる神社がひっそりと佇んでいた。

源頼朝と平清盛、日本のとある転換期に大事な歴史を彩った両雄。
このどちらか一人が欠けていたとしたら、今の日本はまた違ったかもしれません。
良い意味でも悪い意味でも、日本にとっては欠かせない人物であろう。
鎌倉幕府を開府し、統治に成功した頼朝をヒーローとして勉強で習う事が多かった。
実はこれにはとても抵抗があった。
先に覇権争いに勝利し、ライバルを生かす情けを持ち、平和を目指したのが清盛。
当時、中学受験勉強のお陰で周りより知識が深いと自負するちっぽけなプライドが
天邪鬼な道へと走らせたのだろう。清盛の正当化で自分も正当化される気がした。
そんな事で感じられた自己顕示欲は、この少年を更に変な方向へといざなった。

 悟空よりべジータ
 幽助より飛影
 花道よりミッチー

全員が出だしはヒーローの敵。なんと漫画の世界にまで天邪鬼に走り続けたのだ。
今思うと、可愛らしいレベルの抵抗だが、かなりひねくれたガキだったのだろう。
そんな事を思い出しながら、この厳島を後世には全世界にまで語り継がれるような
海上神殿の遺産へと成長させた偉大な政治家を祭った神社の参拝を終わらせた。

世界遺産の観光の次は日本三景を見なければと、宮島のロープウェイに登った。
ロープウェイの終着駅では、半野生化した猿と鹿と所々に積もる雪が迎えてくれた。
比較的温暖で降水量も少ない瀬戸内気候でも、冬には雪も降ることに驚いた。
この滑り易そうな環境の山道を30分ほど歩くと標高500Mほどの展望台があるという。
数値だけでは物足りなさを感じる距離や高さではあったが侮ってはいけなかった。
中には汗だくで半そでになる外人、数人のリタイヤが出始めるおばちゃんグループ。
老若男女和洋中が入り乱れるこの山道には日本三景の厳しさがあった。
思わぬハードルの高さに年老う前に来れた事の喜びを噛み締めながら、晴天の下、
展望台から見下ろせる広島の市街地や瀬戸内の島々の散在美に一人みとれていた。
夕日が瀬戸内の海を赤く染め始めた頃には宮島桟橋からのフェリーに乗り、夕食を
広島市街のラーメンで済ませ、定番のもみじ饅頭とともに東京への帰路についた。

この様な旅をして何よりも楽しいのが、その地で育まれている生活を感じれること。
小さな頃にませた夢を見てしまい、東京で生涯を全うする事を覚悟した自分に、
大きな刺激を与えてくれる。
東京での全て事足りてしまっているかのような居心地の良さに、鈍感にさせられる。
地域にはその地域ならではの生活があり、その意義も充分に持ち合わせている。
その意義を大切に思う人たちが、その土地を守り、その土地を上手く活かしている。

逆に、おれはなぜ東京へ出てこなければいけなかったか。

そんな肝心な事さえも忘れて生活してる場合ではない。
転職を考える際に、関西に戻るのも良案として捉えてしまっていた最近の状況。
当然、関西も東京にない素晴らしさがあり、うまくやっていく自信だってある。
両親の事を考えてみれば、京都に戻るのが最善だろう。
しかし、今戻る事を選択するにはまだ早い。間違いなく後悔してしまう。
諦めてしまった執着心の弱さを棚にあげて、東京への未練を冥土の土産として、
年老いて一生を終える事になるのだろう。

今、ここにいる意味。

それは誰でもない自分で決めたこと。

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